東北町 日本中央の碑

前から行きたかった「日本中央の碑保存館」にやっと行って来ました。
何度、チャレンジしたことか!行く度に休館で。

国道4号線沿いで、上北自動車学校の隣にあります。駐車場も広いです。
開館時間:午前9時~午後4時
入館料:無料
休館日:火曜日、8月13日午後、12月28日~1月4日
(これ以外に以前はコロナの影響で暫く休館していた事があったので、今後も臨時休館あり、かもです)

入口の階段を駆けあがったら、その日は代わりを頼まれた、という人の良さそうなお母さんからパンフレットを受け取って、ドアを開けたら真ん中に デーン とおわしました。
デーーーン と
日本中央の碑
感激~
東北町の有形文化財第1号。
高さは180㎝、横幅は80㎝ということです。見上げる形で見たのと下の方が台に埋もれていたので見た目の高さはそんなにあるように見えませんでした。
中央の碑
「日本中央」の文字の左側に縦長に擦れたような跡が……。引きずったのかな?
親近感の湧く文字
「中央の碑」しか展示されていないのかと思ったら、こんな感じで資料がたくさん展示されていて、ビックリ!得した気分。
日本中央の碑 資料
資料を読んで石を見て、を繰り返していたら1時間以上経ってました。
全部読みたかったのですがお腹が空いてきたので、リタイヤーーーーーッ
猿女お腹が空きすぎるとクラクラしてくる。

ここ↓が中央の碑発見の地。保存館から4キロ程、離れた所にあります。車で5分くらい。

日本中央の碑発見の地
階段の周りは藪でした。階段だけ、かろうじてサンダルでも行けました。
あ、またしてもサンダルで行っちまった(笑)
今回はダニに刺されませんでした。
思ったより山っぽかったので熊対策で手を叩いたり、アー と声を出したり一人で喋りながら進みました。(ビビリ)

日本中央の碑発見の地
ここまで下に降り切ったら、足元がゲチャゲチャの湿地帯です。
小川って言うのかな、小さい川が流れている。
もう少し近づいてから写真撮りたかったのですが、サンダルだったので………

「日本中央の碑」について
「日本中央」と書いて、読み方は「ひのもとのまなか」か「ひのもとまなか」
発見されたのは昭和24年(1949年)、甲地村石文の赤川上流。
川村種吉が自宅に祀る馬頭観音の石材を探していた。赤川に丁度いい石があったのを思い出し村人達と拾いに行った所、半分土に埋まっている状態の石を見つけた。掘り起こし、表面の汚れを落としたら「日本中央」という文字が現れたという。
近くの地名が都母という所で、平安時代から東北地方にあるという「つぼのいしぶみ」伝説と符合するので村は大騒ぎになった。
都母という所は坂上田村麻呂が蝦夷討伐の為、到達した場所と言われている。

平安時代の歌人、藤原顕昭が記した「袖中抄(ショウチュウショウ)」に書かれている。
「いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有り、日本のはてと云えり。
但田村の将軍征夷の時、弓のはず(筈)にて石の面に日本の中央のよしを書き付けたるは石文と云うと云えり。
信家の侍従の申しは、石面の長さ四五丈計なるに文をゑり付けたり。
某所をつぼと云うなり」
弓の筈とは矢じりが付いている方の反対側、糸に引っ掛ける方の事らしい。
坂上田村麻呂が都母に来た際、弓の筈で「日本中央」と彫り付けた、という事が書かれている。
書かれたのは1200~1300年前だという話で、古い時代に書かれたという事らしい。
平安時代には、ある場所がわからない物、謎めいた物として中央に伝わっていた。

日本という言い方は、平安時代にはされていなかった。
今の日本が日本と言われるようになったのは、大宝元年701年施行の大宝律令からだという。
蝦夷は日ノ本と呼ばれていた。津軽の安藤氏は「日之本将軍」と自称していた。
豊臣秀吉も手紙の中で蝦夷を「日ノ本」と表現していた例がある。
一説によると坂上田村麻呂は北海道の向こう、千島辺りまでを領土と認識していたので、ここを中央と定義したという(平安時代、今の東北地方から北は蝦夷と呼ばれていた未開の地。まつろわぬ民、朝廷のいう事をきかない、支配の及ばない人々が住んでいる という認識)
義経伝説でもツボの石文に立ち寄った話があって、それがほんとなら鎌倉時代の始めには石文があったことになる。

この「日本中央の碑」には偽物説もある。理由は坂上田村麻呂は青森県には来ていない。
来たのは岩手県の紫波町辺りまでという事から田村麻呂が字を刻む事はできないので。
この地まで来たのは、田村麻呂の後に征夷将軍になった文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)なので彼が字を刻んだという。
綿麻呂が書いたとしたら811年(弘仁2年)
それ以外に、自分がその石に字を刻んで走っている鉄道から沢に落とした、といった人もいる。
ただ、その時の鉄道が敷かれていた線路は沢を通っていなかったらしくて本当の話かわからないらしい。
ちょっと思ったのが、走っている鉄道から石を落とすとしたら人が何人もで押して落としたのか、テコの原理で木の棒とかでなんとかして落としたのか、最初から落とし易いように積んでおいたのか、落とす方法もわからない。
このサイズの石を走る鉄道から落としても、衝撃でどこか割れたり、それらしいキズが付いたりしないのかな?
発見された後、見に来た人々がチョークで字の縁をなぞったり、拓本を採ったり、その後ゴシゴシこすって汚れを取ったりとしてるうちに更に境目が見えにくくなったりと、本物かどうか余計にわからなくなったらしい。
結局、本物かどうかは決着が着かず…謎なまま。
青森ってこんな感じで謎なものが多いかも。おーもろーー

ラブイズザ ミーーーーステリ~~~~♪♪

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